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三角猫の巣窟

三角猫の巣窟

考えることを考える


私は読書ブログを書いているものの、文章を書くのはすごく苦手である。子供の頃は夏休みの宿題で読書感想文が一番嫌いだったのでぎりぎりまで手をつけずに夏休みが終わる三日前ぐらいになって乾いたぞうきんを絞るように引用をつぎはぎして無理やり原稿用紙5枚の空白を埋めて「面白かったです」でしめたものの、読んだ本の題さえ覚えていない。今時の小学生はどうやって読書感想文を書けばよいのかテンプレがあるようだけれど、私が小学生だったころは読書感想文をどう書けばいいかなんて誰も教えてくれなかった。文学部に行っても相変わらず文章を書くのが苦手で、各講義ごとに原稿用紙10枚分のレポートを書くのにどう書けばよいのかわからずに悶絶していた。それで読書録をつけるついでの文章修行として読書感想ブログをちまちま書くようになって、ようやく自分の考えを整理して人並みに文章を書けるようになった。私以外にも物事をどう考えればよいのかわからない、考えたことをどうやって書けばいいのかわからないという人の参考になるかもしれないので、考えることについて考えることにする。

●考えることはどういうことか
考えるということは何かについての定義や原因や方法を模索することである。

・何かについて考える
意識というのは何かについての意識である。何かを意識しているというだけではまだ考えているわけではない。たとえば目の前に赤くて丸いものがあって、それはリンゴと呼ばれている。そのリンゴの存在を知覚しているだけではリンゴについて考えているわけではない。リンゴとは何なのか、どういう性質があるのかという定義がまずある。リンゴはなぜ皮が赤くなるのか、なぜ甘酸っぱいのか、梨とは何が違うのかと、リンゴという存在について「それは何なのか」という定義を模索すると、リンゴについて考えているという状態になる。

・なぜなのかを突き詰める
物事には時間的、空間的、物理的、心理的な因果関係があって、何かの現象が起きた場合には理由や原因がある。
たとえば機械が誤作動を起こした場合、部品の経年劣化や設計ミスを疑って科学的に原因を考えて仮説を立てれば、仮説を検証して原因を特定できる。殺人事件が起きた場合、警察は現場検証の手がかりからなぜ犯人はこの殺人をこの方法で行ったのかという犯人像や犯行動機を考えて、怨恨や物取りが原因だと仮説を立てて容疑者の範囲を絞っていく。

・どうすればよいのかを発想する
それが何なのかという定義や、なぜそうなったのかという原因がわかった後は、それをどうするのかが考える対象になる。たとえばリンゴという存在を食べ物として理解しても、リンゴをどう育てて収穫してどう料理するのかを考えないと、リンゴは食べ物としては役に立たない。機械が誤動作した原因がわかっても、どうやって故障を直すかを考えないと機会は壊れたままである。

・知識を自分の体験や状況と結びつけることで自分の考えになる
知識とは他の人が考えたり検証したりして体系化した情報である。たとえば博物学者が世界中の動植物を観察して体系化したので、我々は変な動物を見つけたときにそれは何なのか自分で考えなくても、百科事典や図鑑を見れば知識としてすぐに理解できる。パソコンが壊れたときに直し方をネットで調べてその通りに作業すれば直る。知識を知るだけでは自分で考えたことにはならない。たとえばリンゴのレシピ本を読んでその内容を理解したとしても、自分でレシピを考えたわけではない。このリンゴは酸っぱいからレシピどおりに作るよりもシロップを足したほうがいいだろうかと、その理解した知識を自分の体験や記憶に結び付けることが考えるということである。あるいは聖書に神がいるって書いてあって周りの人が神はいると信じているから自分も神を信じる、というのは情報を鵜呑みにしているだけで神について考えていない。自分が困っているときに誰も助けてくれなかったし本当に神はいるのだろうか、聖書に書いてある奇跡は事実なのだろうか、と疑問をもつことが神について考えるということである。自分の考えと他人の考えを区別する方法が引用で、レポートで引用をきちんとできない学生は自分で考えないで他人の考えを切り貼りしただけとみなされて単位をもらえなくなる。自分の考えの中に他人の考えを取り込んで、自分の考えが一貫していて論理的に説明できるようになれば、それは自分の思想になる。
文系にも文学的センスがない人というのがいて、大学院で文学を専攻しているのに文学的センスがない人が何人か私の母校にいた。キャリアに箔をつけるために高校教師をしながら大学院に来ていたKさんが文学的センスがないタイプで、文学というのは自分で研究テーマを設定できる自由でクリエイティブな学問なのに、Kさんはただ先行研究をまとめるだけだったり先行研究に迎合するだけだったりして自分の意見がまったくなく、自分の考えを補強するために先行研究を引用するのでなくて先行研究をまとめただけで何かを考えたつもりになっているのである。テストの勉強ならこれで十分だけれど、これは文学の研究ではない。Kさんは教授にこれじゃダメだよと指摘されてもどこが悪いのか理解していないようだった。他人の研究成果をまとめて教えることができる人は教師には向いているけれど、自分なり意見や独自の視点がない人は文学研究者には向いていない。昔の学者はこういうタイプが多くて、外国の本が超高額で一般人がおいそれと入手できずに外国語を理解できる人が限られていたような戦前なら外国の研究を紹介するだけで独自研究がなくてもまだ学者としての存在価値があったものの、誰でも外国語を理解して洋書を直接取り寄せて買える現代では記憶したことをまとめるだけの人は必要ない。
私は知識人という言葉が嫌いで、知識人という言葉には知識を思想の糧にする人だけでなく、Kさんのように知識だけがあって自分の考えがない人も含まれている。後者は「正しい知識」として権威化された情報を暗記するだけで、権威を疑って検証したりどうするべきなのかを試行錯誤したりしない。自分の頭で考えていないような人はこれからの時代はAIの下位互換でしかなくなる。福沢諭吉の『学問のすすめ』の「人の品行は高尚ならざるべからざるの論」では「人の見識、品行はただ聞見の博きのみにて高尚なるべきにあらず。万巻の書を読み、天下の人に交わり、なお一己の定見なき者あり。古習を墨守する漢儒者のごときこれなり。ただ儒者のみならず、洋学者といえどもこの弊を免れず。いま西洋日新の学に志し、あるいは経済書を読み、あるいは修身論を講じ、あるいは理学、あるいは智学、日夜精神を学問に委ねて、その状あたかも荊棘の上に坐して刺衝に堪ゆべからざるのはずなるに、その人の私につきてこれを見ればけっして然らず、眼に経済書を見て一家の産を営むを知らず、口に修身論を講じて一身の徳を修むるを知らず、その所論とその所行とを比較するときは、まさしく二個の人あるがごとくして、さらに一定の見識あるを見ず。」と言っていて、専門家なのにダメな奴は昔から批判されている。知識は生きるために必要である。しかし単なる暗記ならデータベースを検索すれば済む話で、知識を活かすための思考や、思想を実現させる行動が伴わなければ、リソースの無駄になりかねない。

●なぜ考えなければならないのか

人間は考える葦であると言った人がいたけれど、実際のところは考えなくても指示されたことをこなすだけで庶民はそれなりに生活できる。親に学校に行けと言われて学校に行く人は自分の進路を考えていないし、教師にテストに出るところを覚えろと言われて勉強する人は自分が何を学びたいのかを考えていない。そもそも学校では勉強を知識の詰め込みとしてとらえていて何をどう考えるべきなのかを教えていないので、勉強ができる馬鹿な人がしばしばいるけれど、そういう人は正解と言われている知識の記憶量が多いだけで自分で物事を考えていない。そして会社でも下っ端のうちは何も考えずに指示されたとおりに作業をやるだけで済む。
中小企業が成長して知名度が上がって東大卒を幹部候補として雇うようになると業績が傾くことがしばしばあるけれど、知識があっても自分で考えない人は正解がある前例主義になって不確定なリスクをとらなくなって正解のない変化に対応できなくなるので、転職や起業をしてキャリアアップするよりも保守的に社内政治をする人が幹部にいる会社は技術の転換や社会構造の変化に対応できなくなる。こうして大企業病になって進歩を止めて、ベンチャー企業や外資に取って代わられる。
あるいは宗教や占い師の言うとおりにしたのに人生がよくならないとぐちぐち言っている人もいる。コーランに書いてある通りに生活すれば幸福になれるのならイスラム教原理主義者のテロなんて起きない。宗教を鵜呑みにして自分で考えるのをやめて努力して自分の幸せを開拓するのをやめたくせに、自分が不幸なのを他の人のせいにするからテロが起きる。
今まではこれでよかったし今もこれで問題ないという状況では、人はつかの間の安定にあぐらをかいてこれからどうすればよいかというのを考えるのをやめてしまう。しかし状況が未来永劫変わらないということはありえない。遅かれ早かれ人間は答えがない問題に直面して、何が問題なのか、なぜ問題が起きたのか、どうすれば解決できるのかを考えなければならなくなる。常に未来を先取りして考えて対処していれば問題を回避できるかもしれないのに、深刻な問題に直面して考えざるを得なくなるのは、それまで考えてこなかったつけを払わなければならなくなったのだ。仕事一筋の人が定年退職して熟年離婚してから家庭について考え始めても遅いし、急に病気になって余命が告げられてから自分の人生はなんだったのかと考え始めても遅いし、大地震が起きてから避難生活で何が必要なのかを考え始めても遅い。人生のあらゆる局面で問題は起きるし、社会問題も常におきているので、人生や仕事について早いうちから考えたほうが有利である。

●何について考えるかを考える

ある程度の量の文章を書かないといけないときに考えがまとまらないのは、漠然と考えすぎているのが原因である。漠然としたものでなく具体的な対象に焦点を絞ることで考えやすくなって、脱線することもなくなる。

・テーマ
個人的な問題であれ、仕事上の問題であれ、社会的な問題であれ、人生や社会のあらゆる事柄が考えるテーマになりうる。大テーマ、中テーマ、小テーマとカテゴリを分けて、たとえばいじめの問題を大テーマにしたら、中テーマで学校の教育方針やいじめる側の家庭環境を考えて、小テーマとしてどこかの学校のいじめ事件の家庭環境などの具体的な問題を考えるというように、段階的に考えていくと物事を考えやすい。

・方法論
その方法でいいのか、別の方法のほうがよいのではないかと、方法論を考えることも物事を考える上で重要である。同じテーマを考えるにしても、方法を変えてテーマへのアプローチを変えることで違う考え方が出てくることがある。たとえば小説の感想の方法論なら伝記的批評やフェミニズム批評のような批評方法がいろいろある。研究や商品開発だと何年も同じテーマを研究するけれど、研究方法を変えることで行き詰った研究がうまくいくこともあって、偉い学者が長年研究しても成果がでないのに若い学者が前例にとらわれないで研究してあっさり新発見をしたりする。

・論理
ある程度まとまった内容を考えるには、どういう論理を構成してどういう順序で考えを展開していくかについても考える必要がある。自分の考えをまとめたり、他人にわかりやすく説明するためには論理的な考えでなければならない。「だから」「しかし」「一方で」「したがって」などの章ごとの論理のつながりを示すキーワードを適切に使うと論理のつながりを誤解しにくくなる。考えが複雑であるほど論理の飛躍がおきやすくなる。
アカデミックライティングの章立ての仕方や引用や参考文献の書き方にはフォーマットがあって、たいていの大学では教科書として売っている。

・感情/倫理/道徳
いくら論理が正しくても人間は論理通りに動くわけではなく、感情で非論理的な行動をするので、何かのアイデアを実行に移そうと思ったらそれに対する感情や道徳的な側面まで考えないと実行に至らない机上の空論になってしまう。たとえば経営者が従業員をボランティア名目でただ働きさせて売り上げは自分の懐に入れれば大もうけできると考えても、従業員の反感や世間の倫理的批判で計画が頓挫する。小説家が奇想天外なプロットを考えても、読者の感情を考慮せずに胸糞が悪くなるバッドエンドの小説を書けば酷評される。広告会社が話題づくりをしようとして過激な宣伝を考えても、批判されて炎上して商品が売れなくなったら本末転倒である。自分自身で行動するにしても、感情的に納得していない考えは行動に移せない。たとえば先祖代々の土地を売ったほうが儲かると資産運用プランを考えても、思い入れのある土地を売ることに感情的な踏ん切りがついていなければ行動に移せない。人間が論理と感情の両方を判断基準にしている以上、感情を切り捨てて論理だけで考えるのでは不十分である。

●どう考えるかを考える

大学の勉強は役に立たないという人は少なくないけれど、そういう人は大学の存在意義を理解していない。大学は知識を教える場所というより考え方を教える場所である。大抵の大学では卒業論文のテーマを自分で選べるけれど、レポートや論文の書き方を一通り覚えると、何を考えるかだけでなくどう考えるのかということも考えられるようになる。どう考えるかが教養がある人と教養がない人の分水嶺となる。以下のような思考パターンがある。

・課題、原因、対策
何が問題や目標なのか、どうしてそうなったのか、問題解決や目標達成のためにどうすればよいのか、というのwhat why howをセットで考えるのが基本的な思考パターンで、人生や社会のあらゆる場面でこの考え方が役に立つ。たとえば小説の感想を書くときは、どの部分が悪いのか、なぜその部分が悪いかというと技術的に下手で、別の手法を使って書いたほうがうまく表現できた、という具合に展開できる。

・命題、逆、裏、対偶
AはBであるという命題があった場合、AとBについて合計4パターンの仮定ができあがる。

命題:AはBである。
逆:BはAである。
裏:AでないならBでない。
対偶:BでないならAでない。

この考え方は定義があいまいな言葉を掘り下げたり、誇張や飛躍を見抜くときに役に立つ。たとえば「刺青を入れている人は悪人である」と言ったとして、悪人は刺青を入れている人であるという逆、刺青を入れている人でないなら悪人でないという裏、悪人でないなら刺青を入れている人でないという対偶を考えてみると、刺青を入れている人でなくても政治家とか役人とか悪人はいるとか、悪人でなくても固有の刺青を入れている部族がいるとか、すぐに反論を思いつく。そうすると「刺青を入れている人は悪人である」という一見してもっともらしい命題は誇張を含んでいて、刺青に悪いイメージを持たせたいというバイアスがかかっていることになる。刺青と反社会性の相関について言及したかったら、受刑者の刑期の長さと刺青の割合の相関関係を調べて「受刑者の○割に刺青があるので刺青がある人は反社会性傾向がある」とか、「彫り師がやくざのスカウト役をやっているので刺青がある人は反社会勢力と接点がある」とか、違う命題に言い換えたほうが説得力が増す。

・弁証法(テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼ)
Aという意見があるが、Bという反対意見もあるので、Cにすればよいではないか、という折衷案を考える思考パターンである。否定を否定することで対立したり矛盾したりするものを統一しなおして問題解決することをアウフヘーベン(止揚)という。たとえば政治の問題ではある法案に対して賛成派と反対派がいて、国会の期限内に法案を通すためには反対派を懐柔しなければならないときには、強行採決して失敗するくらいなら反対派の意見を汲んでもっと良い法案を考えるほうが現実的である。
企業のマーケティングや新製品の開発方針で賛否が分かれたときに折衷案にしてとがった特徴がなくなって不必要な機能がてんこ盛りになってかえって魅力がなくなることもあるので、何でもかんでも折衷すればよいというわけではない。

・時間
昔はこうだった、現在はこうなっている、未来はこうなるかもしれない、というように、ひとつの事柄について過去、現在、未来の3パターンの展開ができる。技術の進歩、景気循環のサイクル、子供の成長、製品の寿命など、時間との相関が強い物事について考えるときに役に立つ。

・演繹法/帰納法
演繹法は三段論法のようにAはBである、BはCである、ならばAはCであると論理をつなげていって結論を出すやり方である。もっともらしく見える反面、命題の真偽をちゃんと検証していなかったり、十分条件と必要条件を混同したりすると、論理が飛躍して間違った結論になってしまう。

帰納法は個々のものごとの共通点から規則性をみつけて結論を出すやりかたである。たとえば街頭インタビューやアンケートなどで大学生に月収と好きなブランドを聞いて、ファストファッションやプチプラが好きな人が多かったら、大学生は収入が少ないから安いものでおしゃれするのだと規則性でひとくくりにするのが帰納法である。このときに参考にする個々の事例が偏ると結論も極端になるけれど、メディアがもっともらしく自分たちに都合のいい結論を導いてバイアスをかけるのに使われる。

・主観/客観
主観というのは自分に依存した観点である。たとえば金縛りにあって幽霊を見たから幽霊がいるというのが主観的な考えである。客観というのは主観を離れて第三者の立場で普遍的なものを考える観点である。自分は金縛りにあって幽霊を見たけど、一緒にいた他の人には幽霊は見えなかったから幽霊はいないというのが客観的な考えである。客観のなかでも検証可能なやり方で普遍的なものを考える方法は科学的方法といわれる。たとえば幽霊の存在は科学的に証明できないので幽霊はいなくて、睡眠障害の人の臨床データをとって金縛りは脳が幻覚を見ているのだというのが科学的な考えである。
主観が間違った考え方で客観が正しい考え方だと思われがちだけれど、客観が必ずしも正しいわけでもない。たとえば自分がどうすれば幸せになれるか考える際に、客観的に他の人の普遍的な幸せの基準を自分に当てはめても自分が幸せになれるとは限らない。幽霊を見たと主観的に言う人に幽霊はいないと客観的に説明したところで、幽霊を見たという恐怖体験をなかったことにできるわけでもない。それに幽霊も宇宙人もピンクのユニコーンもイデアを想像できて存在するものとして考える対象にできるので、実在しないからといってまったく考えないよりも、実在しないものについて考えるほうが発想力は豊かになる。たとえばSFの創作当時は実現不可能な科学技術の夢物語でも、何十年か後にはその技術が実際に発明されたりする。

・ミクロ/マクロ
個々のものについて考えるのがミクロ視点、全体について考えるのがマクロ視点である。たとえば地震が起きたらどうするべきかと考えるときに個人での対処法と国家での対処法は違ってきて、防災グッズを用意したり避難訓練をしたりするのがミクロの対処法で、行政が建物の耐震基準を定めたり避難場所を定めたりするのがマクロの対処法である。
具体例を挙げるとミクロとマクロの違いを違いがわかりやすいけれど、実際はミクロとマクロの違いを理解していない人が多くて議論がかみ合わないことがしばしばある。たとえばバブル崩壊後の就職氷河期には新卒で就職できないのは努力不足で甘えだという自己責任論が蔓延したけれど、個人が努力して椅子取りゲームの椅子を奪ったところで椅子の総数が増えるわけではないので、個人が努力しようがしまいが社会全体で見れば同じ数の失業者が出る。つまり就職できないのを個人の責任だというミクロ視点の命題は論理的に破綻しているので、社会は終身雇用や新卒採用や派遣制度をどうするべきかというマクロ視点で考えないと失業問題は解決しない。生活保護の不正受給が起きるのは不正受給をしようとする個人の道徳観というミクロの問題というよりも現行の法律のマクロの問題である。お笑い芸人の次長課長の河本やキングコングが大金を稼いでいるにも関わらず親戚に生活保護を受けさせて援助をしていないというので批判されたけれど、ミクロで個人の道徳観を批判しても意味がない。日本だと問題が起きるとマクロの政策を批判せずに個人に原因があるというミクロの視点になりがちだけれど、個人を切腹させて問題を解決したつもりになっても社会問題を解決しないと本質的な解決にならない。

・シミュレーション
シミュレーションとは模擬実験や模擬訓練のことで、もしこうなったらどうしたらよいかという模擬的なシナリオを通して対策を考えるやり方である。
堺屋太一が通産省の官僚だったときに『油断!』という小説でマルコフ連鎖という確率論を使ってオイルショック時に日本がどうなるかをシミュレーションをしていて、日本の石油備蓄の問題点を浮き彫りにした。サービス業だとロールプレイをして客がこういう要求してきたときはどう対応すればよいかをあらかじめ考えて訓練すると、現場でとっさに対応できるようになる。株のトレーダーは決算発表が良い場合と悪い場合にどの程度株価に影響があって株価がどう動くかを事前にシミュレーションして予想シナリオを作って、相場がシナリオどおりに動いているうちはポジションを持ち続けて、シナリオを外れたらいったんポジションを解消して損益を確定させてシナリオを作り直してから再エントリーしたりする。

・現象学的還元
認識の対象に対していったん判断を中止して、対象の意味づけをやり直すのが現象学的還元である。何かについて考えるときにはまず現象学的還元をして先入観やバイアスを取り除くと、考える対象がより明確になる。たとえば街を歩いていて黒人を見つけたら、その人を外国人だと認識したとする。いったんその「黒人=外国人」という判断を中止して、外国人だと思った条件を問い直すと、日本人の遺伝子から自然に黒人が産まれることはないから外国人だと認識したということがわかる。しかし外国人が日本人と結婚すれば日本国籍を持てるし、サニブラウンのような混血の日本人ということだってありうる。そうすると、「黒人=外国人」という直感的な認識は条件によっては間違っている可能性があるということを自覚できるようになる。あるいはソニーという企業をウォークマンやVAIOやプレイステーションを製造している製造業として認識している人がいると思うけれど、現象学的還元をしてなぜソニーを製造業だと認識したのかという根拠を確かめてみると、ゲームや音楽がCMなどで話題になりやすいのに対して、営業利益の半分はソニー銀行やソニー損保などの金融で稼いでいるけれどゲームや音楽に興味がある若年層は保険には興味がなくて金融業としての側面を見落としてしまうので、製造業としての側面だけが目立つのである。もしソニーへの投資を考えようと思ったら、「ソニー=製造業」という間違った認識のまま投資を考えても結論も間違ったものになる。

・仮説、検証
仮説を立てて仮説が正しいか間違っているかを検証して、間違っていたら別の仮説を立てて、正しかったらそれを元に次の仮説を立ててまた検証していく。石橋を叩いて渡るように、ひとつずつ正しい筋道をたどってロジックを構築していく考え方である。物理や化学など、実験して検証できることを考える際には役に立つ。
このときに検証できない仮説を立てても意味がない。たとえばトランプ大統領が今までの大統領と違って行動がおかしいのは地球外生命体と接触してテレパシーで指示されたとおりに行動しているのだという仮説を立てたとしても、地球外生命体の存在を確認できないので仮説を検証しようがない。根拠もなく検証もできない仮説はなんの説得力もない。

・フェルミ推定
データがないようなものについて考えるときに、手がかりを基にして推定していくフェルミ推定が役に立つ。フェルミ推定はグーグルとかの外資系企業の入社試験で使われて有名になった。
たとえば自分の市にトヨタの車が何台あるのか知りたくても、トヨタのホームページに国別のデータしかなくて市町村ごとのデータが見つからなかったとする。そういうときはフェルミ推定を使って、日本ではトヨタ車が2016年に158万台登録されているから、日本の人口の1億2700万人を158万で割ると、80人に1台の割合でトヨタ車があることになり、人口10万人の市には10万÷80=1250台くらいのトヨタ車が登録されていると推定できる。

・ブレーンストーミング
ブレーンストーミングは頭をやわらかくしてばかげた考えだろうが思いつくアイデアを全部列挙して、そのあとで使えそうなアイデアを選別するやり方である。多人数でやる場合は決して他の人のアイデアを否定しないのがルールになっている。ブレーンストーミングを繰り返していると発想力がつくようになる。

・ロジックツリー
ロジックツリーはWhat Why Howのどれかを掘り下げていくやり方である。木の枝のように論理が分岐する図ができあがるので、原因や対策を整理して考えやすくなる。

・マインドマップ
ある概念から連想したキーワードやイメージを次々につなげていって地図のように分析するのがマインドマップである。発想の全体像が見えるので、文章でつらつら書くよりも理解しやすい。

●考える前に基礎知識と先行研究とデータを集める。

読書の感想を考える程度ならわざわざ先行研究を調べたりデータを集めたりする必要はないので考えたことを自由に書けばいい。しかし政治や経済や科学技術などのもっと重要なことについて考える場合は信憑性がない考えや実現不可能な考えには意味がないので、自分の考えを信憑性があるものにするためには信用できる根拠が必要になる。データを引用するにしても、データの集計方法が正しいかどうか、アンケートの設問が妥当かどうか等をチェックして、信用できるデータを引用しないとデータを引用する意味がなくなってしまう。それに全く知らないことについては考えようがないので、まずは考えるための材料としての基礎知識が必要になる。たとえば私はアフリカの福祉政策について考えようにもアフリカに興味もないし国の名前もろくに知らないので、アフリカ大陸に何カ国あるのか、人口や世帯の構成はどうなっているのか、各国の財源がどの程度でどういう福祉政策をとっているのか、その政策の効果や問題点について専門家はどう言っているのか、日本や欧米の福祉政策とはどう違うのかなどの事実を調べたら、ようやく私はアフリカの福祉政策についてここがよくない、こうするべきだと自分なりに考えることができるようになる。
自分が思いつく程度のことはたいていは他の人がすでに思いついて考えているので、自分で考えた結果が他の人と同じ考えだったりありきたりな考えになることもある。そういうときは自分の考えはわざわざ公表する必要がないので、他の人と同意見だと言うだけでよい。自分で考えた末に他人と同じ考えになるのと、他人の考えをうのみにするのは違うので、ちゃんと考えた末に同じ考えになるというのが重要である。他人と大部分で同じ考えでも一部だけ考えが違う部分があったり、あるいは他人の考えに自分の独自のアイデアを付け加えることができるなら、その考えは自分の意見として公表する価値がある。

●危険な考え方は避けるべき。

第三者が論理的に検証できないような考えには信憑性がない。信憑性がない考えを自分の考えの論拠にしてしまうと、論拠に基づいて自分が考えることにも信憑性がなくなって考えが全部台無しになってしまうので、先行研究を調べている際に危険な考え方にでくわしたら避けたほうがよい。もし自分の思考のマインドセットが危険な考え方に固定されてしまうと矯正するのが難しくなるので、もし自分が危険な考え方をしていると自覚していたら改めるべきである。
ちなみにGoogleの検索ガイドランによると科学的根拠がない陰謀論やヘイトスピーチは検索結果から排除されるそうで、これは言論封殺という批判もある一方で、デマニュースとかヘイト煽りの害のほうが大きいということで社会から排除される方向になっている。

・陰謀論
世間では〇〇だと言われているけれど本当は××で、権力者の陰謀よってその事実が隠蔽されたという考え方が陰謀論である。もっともらしく話を展開するもののまったく根拠がなく、根拠がない理由は「政府に証拠を隠滅されたから」で、陰謀論を論破するようなデータや反論はすべて「政府のでっちあげで信用できないソース」なので、結局その陰謀論が実証されることはない。実証不可能で、論破されても認めないような議論に関わっても時間の無駄である。

・精神論
言葉の論理だけでは思想を理解できず、〇〇すれば理解できると前提条件をつけて個人の精神的資質を問うような思想は論理的な考え方ではない。たとえば厳しい修行をすれば教義を理解できるので理解できないのは信心や修行が足りないのだ、金銭への執着が残っているから教義を理解できないので修行のために全財産をお布施すべきだ、というような新興宗教は結局は教義を妄信する信者を死ぬ間際まで修行させる洗脳になってしまう。こういう非論理的な考え方を理解しようとしてしまうとドツボにはまって抜け出せなくなるので関わらないほうがよい。

・権威主義
偉い人が言っているから正しいという考え方が権威主義である。メンデルの遺伝の法則は当初は学会の偉い教授たちが否定したけれどその後に法則が正しいことが証明されたように、歴史上で権威ある人たちの考えが間違っていたことは多々あって権威はあてにならない。西室泰三のような肩書きコレクターの経営者が実際はたいして経営能力が無くて企業に大損害を与えることもあるので、肩書きが立派な人が立派な経営哲学を持っているわけでもない。ドナルド・トランプのような偏見の塊だって国民が選べば大統領になれるけれど、大統領が考えたことだから正しいというわけでもない。
宗教は上記の精神論だけでなく権威主義にもなりがちで、教祖は宗教団体を作って尊氏だのグルだの大僧正だの法王だのの肩書きで信徒に向けて権威付けして、有名人を広告塔にして有名企業の経営者をスポンサーにして社会に対して権威付けする。○万人の信徒の頂点に立つ偉い人が言っていることなのだから正しいと権威を信じきっている人は自分の考えが無いし、権威外からの反論も通じないので関わらないほうがよい。

・処理流暢性が高い
人間は処理流暢性が高い(=わかりやすい)ものを正しいと思う傾向がある。テレビでは政治経済の複雑な問題を単純化して不景気は○○のせいだと誰かを悪者として槍玉にあげたりするけれど、現実世界は実際はそんなに簡単に理解できるものではない。わかりやすいからといって正しいとは限らないということを意識していないと、自分で複雑な物事を考えようとせずにテレビを鵜呑みにする情報弱者になってしまう。

・迷信、都市伝説
どこの誰の意見が発祥なのか不明で論拠となる原典や科学的データがない考えは信憑性がない。迷信や都市伝説を論拠にして自分の考えを展開しても、都市伝説に尾ひれをつけるだけになる。

・経験主義
経験主義とは自分で経験したことしか信じないという考え方である。個人で経験できることには限りがあるため、経験主義の人は偏った考え方になる。たとえば高齢者は今までスマホを使わなくても生きてこれたのだからスマホは必要なくて固定電話で十分だと考えたり、高齢の体育教師が昔は運動中に水分補給をさせなくても問題なかったのだから水分補給は必要ないと考えたりして、経験に基づいた考え方をすると時代の変化についていけなくなる。自分で経験したことしか信じないような懐疑主義にまでなってしまうと、私は火星に旅行したことがないから火星が実在するとは限らない、というように経験していないことをすべて疑うようになってもはや話が通じない偏屈な変人になる。

・二項対立
善と悪、生と死、男と女、美と醜、右翼と左翼、など、Aはこうである、一方でBはこうである、と二つの項目の優劣を比べるのはわかりやすい構図で主張をはっきりさせやすい反面、二つの項目がはっきり分れるとは限らず中間もありうるわけで、二項対立にすることで極端の思考になってしまう危険がある。脱構築でその二項対立が成立しないという見方をすれば二つの項目を比べること自体が無意味になるので、その二項対立が成立するかどうかということから問い直すべきである。たとえば男と女という二項対立にしてしまうとLGBTについての思考が抜け落ちてしまう。

・極論
社会問題について考える際に、「~なだけ」「~でしかない」「~にすぎない」「~さえすればよい」と原因や解決策をひとつに絞って断定するパターンは極論である。現代社会は様々な法律や政策が互いに影響している複雑な社会なのだから、問題の原因や解決策がひとつだけということはありえない。こういう極論は議論を極端な方向に導くことで得をしたり、都合が悪いことから目を背けさせたりする際のポジショントークの場合がある。2ちゃんねるによくあるような、無職は強制労働させればいい、無職は全員殺せばいいという現実的でない極論の問題解決策はそもそも検討する必要もないので、考えるだけ無駄である。

・バイアス
極右や極左など強い政治的バイアスがかかった団体が虚偽の出来事をでっちあげたり、史実をなかったことにしたり、事件が起きるとすぐに○○の仕業だと決め付けたり、自分の思想に都合の悪い事実を無視したりする場合がある。政治的バイアスがかかっていて真偽の検証が不十分なものは自分の考えの論拠として採用するべきではないし、言及するにしても仮定や推論という扱いにとどめておくほうがよい。

・結論ありきのこじつけ
研究したり考えたりした結果としての結論を導き出すのでなく、あらかじめ結論を決めたうえでその結論にとって都合のいいデータを集めるのは物事を考えたことにはならない。いくらstab細胞はあると研究者本人が言っても、第三者が検証して存在を証明できないのでは研究手法のミスやデータの改ざんを疑われる。中国共産党は南京大虐殺が起きたという結論ありきで証拠を捏造しているけれど、死者が子供を産んでいるようで複利で年々推定死者数が増えていくという滑稽な状態になっている。反捕鯨団体は捕鯨を禁止するべきという結論ありきで主張を後付けしているので、最初は絶滅危惧種だから捕鯨するなと言っていたのに絶滅危惧種じゃないと論破されると今度は漁の方法が残酷だから捕鯨するなと言い出して、主張をころころ変えている。こういう人たちは経済的理由や政治的理由で結論が先にあって結論にあうように主張をこじつけるので、主張を論破しようが結局結論を変えることはない。シーシェパードに論理的に反論しても無駄だったけれど、テロリストとして扱ったとたんにシーシェパードは活動をやめたように、論理的反論をしたうえでそれ以外の対応をとるほうが現実的である。

・詭弁
自分の考えが詭弁に陥らないためにも何が詭弁なのかを知る必要がある。Wikipediaの詭弁のページに詭弁のパターンが一通り書いてあるので読んでみるとよい。論理のすり替えとかの詭弁は議論の中で頻繁に起きていて、詭弁に対処するのも一苦労である。たとえば小説の感想とかでファンとアンチの議論でしばしばありがちな詭弁は、村上春樹を批判する人は成功者に嫉妬しているのだと人身攻撃で論点をそらしたり、世界中で村上春樹が人気なのだから村上春樹を批判する人は小説が読めていないのだと多数論証をしたりする。あるいはマスコミやツイッターで批判したい相手の元の意見をゆがめた形で不正確に引用して批判するというストローマンが原因で、悪意でゆがめられた情報が広がって炎上することがしばしばある。左翼が世間の支持をなくしつつあるのも詭弁で主張をごり押ししたのが原因で、左翼を支持しない人は右翼だという誤った二分法で誰彼かまわず敵認定して内ゲバしたり、被害者がかわいそうだから政府は慰安婦の強制連行を認めるべきだという同情論証で補償をねだったり、詭弁が論破されると最終的には大声で恫喝して暴力で解決しようとするので、もはや左翼は日本をより良くするために権力を監視するというよりも詭弁で脅迫して利益を得ようとする反社会団体になってしまった。こうなってしまうと左翼の主張をちゃんと聞こうという理解のある人もいなくなってしまう。
詭弁は論理的に破綻しているので、自分が論理的に考えていれば詭弁に陥りにくくなるし、他人の考えを論理的に理解しようとすれば論理が破綻している詭弁に気付く。自分が詭弁を言っていることに気づいたらすぐに修正するべきだし、詭弁を言う人を相手にしても議論が深まるわけではないので相手にする価値がないものとして無視してよい。

これらの危険な考え方はどれかひとつだけでも十分非論理的だけれど、これらはしばしば複合的に展開される。たとえば結論ありきでミャンマー軍がロヒンギャを虐殺していると決め付けてそれをでっちあげるためにアフリカの虐殺写真を引用してフェイクニュースを広めたり、ベンガル人不法移民が略奪しているというミャンマー政府の発表は信用ならないと陰謀論を持ち出して政府や大使館の公式発表を否定したり、欧米大手メディアの報道が正しいという権威主義のバイアスでミャンマー軍の虐殺の証拠がないままスーチーを非難したり、かわいそうだからロヒンギャを支援すべきだという同情論証の詭弁でロヒンギャが不法移民でなくて迫害されている少数民族なのだと認めさせようとしたり、日本が難民を受け入れれば解決すると極論を言い出したりする。このように複合的に突っ込みどころがある場合は、最初の前提となっているロヒンギャという民族がいるのか単なるベンガル人不法移民なのか、ミャンマー軍が虐殺したのか不法移民が略奪したのかという真偽を検証すれば、ミャンマー政府とマスコミのどちらが嘘を言っているかがわかるので、それを前提として展開したその後の主張はおのずと根拠がなくなる。

●一度考えたことがあるということが次に考えるときに役に立つ。

あれはもしかしてそういうことなんじゃないか、あれをこうしたらいいんじゃないか、と思いついたアイデアの大半は役に立たない。思いついたことをメモしても論旨がまとまらなかったり、ありきたりな結論になったりして、こんなものメモしなくてもよかったんじゃないかとさえ思う。しかし何かについて一度でも考えたことがあると、その思考の積み重ねで、たまにもっと面白い考えがでてくるようになる。ふとしたことで以前まとまらなかった考えがまとまるようになったり、前に考えたことと新しく考えたことを組み合わせてより深く考えたりできるようになったり、間違っているところに気付いたりする。思考というのは単発のアイデアではなくて長期間の積み重ねで改良されたり成熟したりするものなので、無駄な思考というのはなくて、何を考えても脳の肥やしになる。
自分はどう生きるべきか、社会はどうあるべきかというような正解がない考えには早急に結論を出す必要はないし、わからないことを理解するために考えているのだからわからないことを恥じる必要はないし、わかったふりをして気取っても意味がないので、考えてみても現時点ではわからないようなことはいったん考えるのをやめて結論を棚上げして、歳をとっていろいろ経験してから中断した思考の続きを考えればよい。
いったんマインドセットが出来上がると、考えたことがない新しい事態に直面したときにも今まで考えたことを応用して対処しやすくなる。例えば大地震で津波とメルトダウンが起きたときの株価の変動について考えたことがあれば、北朝鮮のミサイルが日本に落ちたときの株価の変動を考えやすくなる。祖父母を見て老いることはどういうことかと考えたことがあれば、自分が老いたときにどうすればよいかということを考えやすくなる。自分で考えて対処できることが増えていくことが大人になるということである。

●考えたことを書き残すことが生きた証になる

活字は活きている字であるということを西部邁がTOKYO MXのゼミナールで言っていて、どの動画なのかは忘れたけれど、俺は間違っているかもしれないがこのことについて自分の意見を言いたいのだというのが活字で、現代には読む価値がある活字がなくなったというようなことを言っていて、なるほどなあと思ったのである。これを私なりにもうちょっと考えてみる。
近頃は若者が活字離れしているといわれている反面、若者がネットで文章を読み書きしているから活字離れはしていないという反論もある。しかし人間の思考というのは電子掲示板やTwitterやLINEの数行の文章では十分に表現できないものである。短文でしか読み書きできないツールが流行るのは活字離れの症状じゃないかなあと私は思う。いまどきの若者はLINEのスタンプさえ面倒くさがって使わなくて一文字で返信しているとニュースになっていたけれど、そこまで端折るならもはや言語というより記号である。内輪で通じる言葉を作ったコギャルのほうがまだかわいげがある。その若者が使っているキュレーションサイトやまとめサイトは活字ではなく死字というようなものだろう。キュレーションサイトやまとめサイトは金儲けのために言葉をつぎはぎした死んだアーカイブで、そこから世界を変えるような思考は生まれないし、死んだ言葉が琴線に触れることもない。
間違っていようが不完全だろうが、自分がこの世界と対峙して考えたことを発信するということに活字の意義がある。私の読書感想ブログも他の人にとっては人気作家をボロクソにけなす不快な妄言に見えるかもしれないけれど、他人がどう思うかは自分がどう考えるかとは関係ない。私はこのように考えたのだよというそれだけのことで、私は私の考えが正しいとは言わないし、私の考えを他人に押し付ける気もない。私が自分で考えたことを活字にすることで、私は自分が小説やこの世界に対峙して生きていたのだということを自分で確認しているのである。なんで私が考えたことをブログに書くかというと、他の人にも役に立つかもしれないと思うからである。たとえ私の考えたことが間違っていたとしても、それも含めて他の人の考える材料になるなら他の人に役に立っているといえる。私のブログを読んでわざわざメッセージを送ってくれた人が何人かいたけれど、私が考えたことをこっそり手帳に書いて公表しなかったら他人が反応することもなかったわけである。
今時の若者は打たれ弱いのか、批判されるのが嫌だから自分の考えをネットに公表するのは嫌だという人がいたけれど、それはもったいない。言いがかりは相手にする必要はないけれど、批判されて自分では考え付かなかったことへに気づいてそこから新しい発想が生まれることもあるし、自分が間違っていることに気づいたときには成長する機会になりうる。学生のうちは教授が間違いを指摘してくれるけれど、大人になると間違いを指摘してくれる人が少なくなる。一人暮らしをすれば親からの小言もなくなるし、会社の上司は仕事上の間違いは指摘するだろうけれど仕事と関係ない間違いは指摘しないかもしれないし、学生時代に親身に忠告してくれた気の置けない友人も転勤やら収入格差やらで徐々にいなくなって、大人になってから知り合った友人はうまい距離のとり方を知っているのでわざわざ間違いを指摘して相手が不快になるようなことはしない。さらには自分に同調して賞賛してくれる人とばかり付き合うようになって、右翼や左翼やスピリチュアルをこじらせてしまいかねない。思想をこじらせて手遅れになる前に間違いを指摘してくれる人がいるのはありがたいことである。若い人はまとめサイトやキュレーションサイトで誰のためにもならないような小遣い稼ぎの記事を書いたり、TwitterやLINEで思考とも呼べない短文のコミュニケーションをするより、自分のためになる活字を自分の生きた証として残すほうがたとえ金儲けにつながらなくても意義があることだと私は思うので、ぜひいろいろな物事を考えて活字にしてほしいのである。

2017/11/6 三角猫
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(*‘ω‘ *)ニャー


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